2010/12/04

小田原の日常に「雑踏」を / おだわらノートに書かれた思いの数々

【タウンニュース小田原版】 2010/12/4号





___1回目のシャッフルは、始まってから3ヶ月目くらいでしたでしょうか、、?

(シモダ)
いえ、最初は勢いをつけようと思って1週間目くらいで行っちゃいました。
初めはMASARUさんの占いで始めるのにふさわしい日を選んでもらって、6月10日にスタートしたんです。ちょうど新月の日でした。白紙のノートを置いていただくというのは設置スポットのオーナーさんにもプレッシャーがかかるので、わざと1週間でシャッフルしたんです。
その時に感じたのは、1度ノートを置くとその場所に根付くので、オーナーさんもすごく愛着を持ってくれて、たかが1冊のノートに我が子のように情が移るんですね。だから1週間で「動かさせて下さい」と言うと、本当に名残惜しそうな顔で、旅立つ我が子を涙ながらに見送るような感じでした。後で書き込みをフォローしてみても、やっぱりちょっと早過ぎたな、と反省しました。心苦しかったので、その後は一夏放置しました。
そして8月の終わりに一旦ノートを全回収して、9月いっぱいは文字起こしの作業等をしましたので、1ヶ月強の間は小田原から「おだわらノート」が消えてしまいました。(笑)


___あの量の文字起こしは大変だったんじゃないですか?

(シモダ)
んー、まぁ。でも、現状では何とか作業できる範囲なので。
いずれ裾野が広がったら、協力してくれる人も増えるだろうと思っています。


___シャッフルと文字起こしを通して、書かれている内容などから、どういう所に「おだわらノート」の面白さを感じましたか?

(シモダ)
やっぱり「小田原LOVE」な内容が多かったですね。

(イトウ)
地元の人の「小田原LOVE」と、観光で来た違う街の人が「ちょっと小田原LOVE」という、その交差点みたいな。(笑)


___意外と観光客の方の書き込みが多いですね。

(イトウ)
多いですね。お店にもよりますが。

(シモダ)
それと、そこのオーナーさんがそこに集うお客さんや観光客の方々にどうアプローチしているのか、その辺が垣間みれる気がしました。ホスピタリティ、というか。


___そのノートがまた別の所に行って、となると、情報交換にもなってきます。

(シモダ)
そうですね。このプロジェクトが機能して裾野が広がったら、結構面白い動線が作れるんじゃないかな、と感じます。

(イトウ)
この時点で既に、他所から来たノートを見て「あ、このお店に行ってみよう」と辿って前の店に行っている人もいるし、ノートを置いてある店同士で「ランチはどこが良いですかねぇ?」「じゃ、◯◯は」とか、「お土産はどこが良いですか?」とか、そういう動きがあるみたいです。やっぱり書き込みをみると繋がっているんだなぁという実感があります。
あと、食べ物の書き込みが多いですね。(笑)


___特に女性だと食べ物の話題は多いでしょうね。

(シモダ)
女性に限らないですね。


___書き込みは、女性と男性とどれくらいの比率なのでしょう?

(シモダ)
比率で言うとやはり女性の方が多いと思います。

(イトウ)
男性の書き込みも結構ありますね。

(シモダ)
男の人の筆圧とか、存在感ありますよ。(笑)

(イトウ)
そうそう。実際に手に取ると、筆圧で気持ちとか様子がうかがえるから面白いですね。

(シモダ)
アナログならでは、のね。


___「アナログ」という言葉が出ましたが、お二人は普段からツイッターをされたりとか、かなり「イマドキのデジタルなメディア」に親しんでいるように見えます。情報交換や発信などはそちらのメディアで充分にやって行けるはずだと思いますが、どうしてここで「アナログ」だったのでしょう?

(シモダ)
リアルな「肉体感覚」だと思います。痛い、熱い、寒い、痒い。手触り、とか。五感の中で、デジタルでは再現できない感覚というのがあると思うんです。視覚や聴覚はオンラインでも共有できるんですけど、触覚や味覚や嗅覚はやっぱり。。。
人を衝き動かしてゆくのは、そういうリアルな肉体感覚から来るものが大きいと思うんです。そういった五感を通して訴求するメッセージのあり方や発信の仕方というのは、美容師としての仕事のスタンスにも通ずることで、ヘアスタイルの視覚的な見栄え以上に触覚としての居心地の良さとか、同じ発想なんです。「リアル」で「等身大」な「肉体感覚」ということです。
そういう発想であれこれブレーンストーミングをしていく中で、「雑記帳」ということをイトウさんが言ってくれたんです。

(イトウ)
たまたまその日にツイッターで喫茶店のノートのことを言っていたんです。それが頭に残っていて「あぁノートって良いよなぁ」って。
たぶん電子書籍がどんなに流行っても「本」っていうカタチは無くならないし、ただ情報を読めれば良いかと言うと、それだけじゃないですよね。布団の中でガサガサしながら読むページの感じとか。
ノートも、実際に持って、紙をめくって、文字を刻んで行く。単純に楽しい(笑)。みんな字を書く機会も少なくなっているから、じゃぁ機会を作ってあげようかな、と。

(シモダ)
たまに筆記用具を手にすると新鮮だものね! 落書きしたくなる。(笑)


___私も記事を書くのはソフトがあるのでデジタルですが、特集の割付けなどは鉛筆で描いていくので「わりとアナログですね」とよく言われちゃいます。(笑)

(シモダ)
やっぱりアナログだと発想が変わるし、デジタル以上に立体的だったりします。ノートを見ていても、何かの書き込みに対するレスの付け方なんて、自由に矢印が引いてあって、グリグリ書いてあって、体裁も何もないワケです。


___たしかにデジタルだと「フォーマット」というものがあります。

(シモダ)
そうなんです。この自由自在な感じには、何か「人間の尊厳」を感じます。(笑)

(イトウ)
パソコンとかを使い慣れている人には全然平気なんだろうけど、それは僅かなんですよね。小田原って結構ツイッター盛んだなと思うけど、実際やっている人なんて「市民の何パーセントなのよ!?」というくらいです。
ウチの父親なんてパソコンは「悪」だと思っているから(笑)、いろいろな人に垣根を作らないとなると、昔ながらの方法が良いよね、と。

(シモダ)
なんであれツールを使いこなすということは、そのツールのフォーマットに発想なり表現方法なりを落とし込んで行かなきゃいけないから、やっぱり本来の「ナマ」ではなくなるんですよね。ツイッターがいかに「ナマの声」だと言っても、140文字に落とし込まなきゃいけない。
言ってしまえば、ノートに書くことすら、もともと心の中にある「想い」を「言葉」に変換しなくきゃいけない。なるべくそれがダイレクトに、「ナマの肉体感覚」を失わないまま届くと良いですよね。そういうものを拾い集めることが出来たら良いなと思っています。

(イトウ)
人の字っていろいろだなぁと思う。丸い字とか。


___私もツイッターは登録していますが、なかなか出来ないでいるんです。大したことは言わないんですけど、何か緊張してしまうんです。ノートだと書き方で伝えられるというか、、カワイイ字で書くとか。。

(イトウ)
「悪気はないですよ~」とか(笑)、飾りで表現できたりね。


___そうなんですよ。真面目モードの時はしっかりした字で書いたり、ユルイ感じの時はユルイ雰囲気で書いたり。例えば「あいうえお」と書くにしても、アナログだと安心感があります。

(シモダ)
おっしゃる通りだと思います。コミュニケーションってすごく複合的な要素を持っているから、こうして話していても身振りや表情や声色で伝わる部分は大きいですもの。

(イトウ)
そう思うと、普通に会って話すのが一番安心。

(シモダ)
その「会って話す」という部分がまた「おだわらノート」のルーツに繋がってくるんです。「雑踏」ということがキーワードだったんです。
「おだわらノート」に至るまでの経緯で立ち消えになったアイデアがいろいろあって、例えば「イベントを興せばそこから文化が興るのか?」という話があったんです。イベントを興せば人が交わるのか?って。
その時は良いんです。「祭り」として盛り上げるだけなら瞬発力でいろいろなことが出来ますし、いろいろな発想を持っている方がいらっしゃいます。けれどそのイベントを通してやろうとしていることを、「ハレ」という特殊な時間としてやるのではなくて、「ケ」という日常の中で行うことが出来ないだろうか、と考えたんです。
例えば吉祥寺という街には井の頭公園という広い公園があって、そこに至るまでの街並にすごく活気がある。コンパクトな場所に濃密に人が集まって交わっている。あの活気は何なんだろう?と。


___あの街はまた面白いことをやり出す人が多いです。

(シモダ)
そうなんですよね。何かが立ち上がる土壌があると言うか。環境と言うか。
じゃぁ「あれは何なんだろう?」と言えば、「雑踏」なんだと思うんです。日常的に、そこに行けば一定以上の密度で人がいて、何か目的があって集まっている訳ではなく、ただ交わっている。そして、その「交わっている」ということから何かが立ち上がって行く。
きっと小田原に無いのはそこなんだろうと思うんです。たしかに小田原も週末になると駅は観光客の方がたくさんいらしゃっていますが、何かが立ち上がるという感じは薄いように感じます。
じゃぁ何か土木工事をしてウツワを造れば良いのかと言うと、それはどうなんだろう?と。それで「土木工事の要らない雑踏づくり」ということで「おだわらノート」という発想に至ったんです。こんなアナログな仕掛けで「雑踏」が作れたら面白くなるんじゃないかなぁ~、って。
そして「おだわらノート」のキモは、ノートをただ同じ場所に継続して設置するのではなくて、それを不定期にかき混ぜることなんです。東に置いたノートが西へ行き、海辺のノートが山に行く。そうすることで、時間はかかるかも知れないけど擬似的な雑踏が作れるのではないかなぁと期待している訳なんです。

もう一つ、そんな意見交換をして行く中で、ある若者が「そんなに人と人が交わる必要があるんですか?」ってボソッと言ったんですね。その言葉に私はちょっとショックを受けたんですが、いや、それはむしろリアルな小田原人の気質だなぁと納得してしまう自分に気づいたんです。無理に繋がらなくても良いんじゃないのか、って。そういう「密度の適度な薄さ」が、良くも悪くも小田原人の気質なのかも知れません。何なんでしょう、誇り高いんでしょうか?
ですから、今のままの「適度なスキマ」を持った個々の存在のあり方や、それぞれの活動領域の「適度な距離感」を保持したまま「雑踏」を作る仕組み。「おだわらノート」の仕掛けは、その辺も意図しているんです。

(イトウ)
私は2年半前に結婚して小田原に引越して来て「アウェイ」なんです。で、いろいろ縁があってモトカさんと知り合って一緒にいろいろなことをやり始めて、この「おだわらノート」が立ち上がって来た時に「交わらなくても良いじゃん、なんて何てコトを言うんだこの人は〜!」って思った。(笑)
私は他の所から来て知合いもいないから繋がりたくて仕様がない。そういう人って他にもいっぱいいると思う。そっち派の人は結びつこうとして頑張ろうとしている。「繋がらなくてもいいじゃん」っていう人と、「繋がらせてくださいよ〜」という新参者と、その両方がやがていつかは交わって来るんじゃないかと思っています。そうすると、新しいスタイルが小田原にも生まれるだろうし、どっちかがどっちに染まりきるということはないだろうと思っています。


___私も新参者なんですが、小田原は同窓会とかの繋がりが濃いなぁと感じます。例えば小学校の同級生と日常的に飲みに行ったり、というのは私には持ち合わせていない感覚でした。もうそこでコミュニティが出来上がっていて、そこそこ楽しいし安心感もあるという状況を見ていると、「新しく繋がる必要がない」という発言は納得できる気がします。

(シモダ)
豊かなんでしょうね。だからそれで済んじゃってる、ということなんだと思います。

(イトウ)
別に「東京」になりたいワケでもない。(笑)

(シモダ)
地方の都市へ行くと同じようなことを感じたりします。センスの良いお店がたくさんあって、届くべき情報は届いているのに、街を歩いている人たちは「?」という感じだったりする。何故だろう?って。
それは土地が豊かだからなんだろうと思うんです。元々の暮らしが豊かで、食べ物も美味しくて物価が安い。だからそれ以上トンガッタ情報を受け容れて、それを主張する必要がない。これは幸せなことなんだと思います。
だからそうしたことを思うと、はたして「トンガッタことをせねばならないのだろうか?」と自問自答してしまいます。

[ fmおだわら  2010.12.28 OA]

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